Japan Earthquake & Tsunami 2011 -311 on my part-
3月11日14:46分に発生した、東日本太平洋沖大震災。
三陸沖を震源とする非常に強い地震が発生し、これにより東北地方を中心として、関東・北海道に及ぶ広い範囲で、大きな被害が発生しました。
magnitude9.0.
東日本の海岸線を襲ったのは、ハイチの500倍以上の威力の地震、スマトラの1.2倍の規模の津波でした。
当日の私も、本当に、大変なことになっていました。
とてつもない大地震で、縦揺れが来た後、7分間の横揺れ。
PCで仕事をしつつという日常から、いきなり足を開いて踏ん張って、テレビと食器棚を押さえてましたが、ワイングラスは飛ぶは、調味料入れのガラスジャーは降ってくるわ、ガラスの破片まくりの我が家でしたが、耐震用の家具が多かったので、家の中での被害はそれだけ。
人間は無事です。
この時の震度が7。
急いで、玄関のドアを全開にして、東京で仕事してる香港娘と、観光でヘアーカットに行ってる筈の香港娘にケータイ鳴らしてみるものの、不通。すでに輻輳状態。
で、10分もしないうちに、ガラスを片付けていた我が家では、また巨大な横揺れが続いて、船酔いのような不調感。
また食器が崩れてくるし、スチールの調味ラックは勝手にストッパー外して移動し出すし、足の踏み場もないとはこのこと。
この時の震度が5。
危険を感じて家の外に出ると、同じマンションのご近所さんがフロアに出たり、下の階の人が目の前の公園に走り出していたり、完璧な避難してました。
この時に気が付いたのが、マンション周りの液状化。
思いっきり、阪神大震災の神戸のフラッシュバックがよぎりました。
これで広域地震だと気が付いて、地震の恐怖が湧きあがってきました。
地震での閉じ込めや怪我に始まって、直後から始まる火事・事故の二次災害、数時間後から始まる交通傷害と帰宅難民、通信障害、停電、断水、ガス供給停止などのライフライン・クライシス。
翌日から始まる深刻な人探しと、道路の封鎖、流通麻痺、公共機関の機能障害。
1週間後から始まる、商流停止に伴う物資不足(水や卵、牛乳、乳製品、野菜などの生鮮食料品以外にも、缶詰・保存食料商品、トイレットペーパー、オムツ、ガスボンベ、ガソリン…)と高騰。これは多分3か月以上。
3か月目にはGDPはマイナスになり、国債も価値を下げ、国内投資家の活動も停止し、日本からの輸入に頼っていた地域を狙った慎重買いに向かったり、保険会社の支払準備金の移動などで、円高も進むでしょう。中小企業は倒産が続き、全国的に失業率も上がり、今回の余波で、地震から1年目の間は、苦痛の日々が広がることになると思います。
直接の被災地では、当初から避難所への混乱や、避難場所での余震と寒さと上による不安と恐怖での精神負荷がかかり、3日後から切羽詰まってくる安否確認に陥り、5日目から続く被災者の捜索最終段階の決断と苛立ち、1週間後から始まる体力の限界、移動を余儀なくされた人々の心労の中、体調を悪くする人もでてくるでしょう。
人は自分が「生きている」と実感しているときは、命に感謝するものですが、「生活」を思う時に失ったものを思うほうが辛く、そして長いのです。
乗り越えられる人ももちろん居ますが、乗り越えられない人が多いのも事実です。
南西沖地震、LA Earthquake, 阪神大震災、いくつか体験して、たくさんの人を見てきました。
神戸市を荒廃させた1995年の阪神大震災では、約6千人が死亡、損傷約10兆円で、結局元の生活に戻れず、10年もの間、絶望や虚無のまま、病気になったり、自殺したりする人が続きました。
経験則からは、教訓以外にも、様々な思いと流れが浮かんでしまいます。
これが、時間がたつごとに生き地獄が増していく、地震のインパクトというもので、自然災害の中で、最も恐ろしいとされている理由です。
そんな訳で、次の流れが分かっている東京在住の日本生活者は、交通麻痺に備えて、地道に次の手を打っていました。
そう、帰宅困難対策です。
有明で仕事していた友人は、地震の後、即、田町に向かって歩き出したそうです。(そのまま職場のオフィスで寝ようとしたら、メンテナンスのSOSコールで、そこから24時間仕事することになったそうですが…。)
多くの人は早退して歩きだしたり、都心部でスーツのまま、スニーカーや自転車を購入して30kmや50kmの距離を、自力で帰宅しようとしていました。
50kmを超える通勤者は、オフィスに泊まり込もうとしたり、帰宅難民と呼ばれる行き場所のない人たちには、避難所となる公共施設に向かっていました。武道館や代々木体育館などで一晩明かした人も多かったでしょう。
日本人の凄いところは、ここで、歩いて帰るという決断をするところでもありますが、帰るためのバックアッププランやルートを2-3は持っている、という日頃からの準備でしょう。
なにより、スニーカーや自転車などを購入するにあたって、暴動や強盗が起きない理由は、商売人が、ここぞとばかりに値上げをしないからだとにあると思います。物がそこにあるじゃないか!と手に入れられないお客さんが怒りだして、店から強奪という流れは、割と多くの国で見てきましたが、この非常時に、日本ではそういう光景を1度も見ませんでした。
さすがに、縦1列に並んで、まっすぐ人が歩き続けている姿には、ちょっと驚きもしましたが、ここは大丈夫なんだな、と妙に納得させられました。
問題なのは、香港から観光に来ていた娘さんです。
香港には、地震という概念がそもそも薄くて、地震が何かは当然知っていますが、体感したのは生まれて初めてで、その後何が起こるかは思いつくわけがないんです。(地震がないから、香港は、高層ビルが多い訳ですね。)
原宿にいたジョビーは、すぐに電車が動き出すと思っていましたし、翌日には通常に戻ると思っていました。
今日中どころか、明日も、1週間後も戻らない、返って悪くなるのが地震というものだと伝えることは、難しいものなのです。
香港娘に歩いて帰れとは言えないです。心配で、こっちの気が狂いそうになりますし。
もう1人の香港娘、花ちゃんはホテルのロビーからiPhoneで連絡がとれました。
少ししたら、電車でホテルに戻れると思っていたジョビーには、前日会っていて、Wi-Fi routerを渡していましたから、それで連絡がとれました。
TwitterとFacebookは偉大ですね。
「大丈夫」というジョビーを説得して、私たちが「迎えに行く」と言ってからが、大変でした。
レンタカー屋に走ったのが16:00。
4軒回って、1台も空きがなくなっていました。
前日ジョビーをホテルまで送っていくのに借りていた車もなくなって、結局マンションの同じフロアに住む2軒隣のご近所さんに車を借りて、出発したのが18:00前。
こういう時に、日本人の優しさと深い慈愛を感じます。
香港から来た子を放っておいちゃいけない、と、あっさり車を貸してくれるなんて、本当にありがたい話です。
そうは言うもの、この時の日本は、緊張感張りつめてましたから、みんな心が固くなっていたとも思います。
電車、地下鉄、バス、新幹線、飛行機は全面不通、高速道路も全面封鎖、電話もケータイも通じないまま。
埼玉・神奈川は断水、停電、ガス供給停止などのインフラ止まったところも多かったらしいし、千葉は地割れと海からの浸水、液状化、石油コンビナートの火事で、凄いことになってました。
後で知ったのですが、茨城・栃木はインフラ全滅で、見放されたと悲観に暮れている人が多かったようです。それが、まだ続いてるところも多いようですね。
とにかく、東京方面からは帰宅難民で彷徨ってる人も多かったし、東京方面に奥さんや娘さんを迎えに行く車の大渋滞も凄まじいものがありました。
ガソリンスタンドも行列。前日に30分でついた道のりが、6時間かかった訳ですから、疲れていたこともありますが、進んでいる道は水や泥だらけで、電気が消えているところも多く、交通事故も相次いで、パトカーや救急車、消防車のサイレンは鳴り響いて、本当に恐ろしい思いをしました。
そんなこんなで、全然ジョビーと会えないまま11時を過ぎたところで、ジョビーのプリモバイルから電話が繋がりました。
いつも思うのですが、香港娘は、幸運を持って歩いているような、不思議なことが起こります。
それまで、ジョビーにも花ちゃんにも50回くらい電話をかけて、1度も繋がらなかったのに、向こうからは繋がるんですよ!信じられます?
彼女たちと居ると、こういう奇跡にいっぱい出会えるんです。
電話では、銀座線が動き出したとのことで、ジョビーに移動してもらうことになりましたが、顔見ないと落ち着かないし、花ちゃんのほうも心配だったので、そのままホテルまで行くことにしたのです。
石原都知事に感謝しましたね。これぞ、英断!
とにかく、2人は無事でも、ホテルの周辺が火事とか陥没してたら、連れて帰ろうとも思ってましたし、ホテルの中でインフラ止まってたら、やっぱり連れて帰ろうと思ってました。途中、ディズニーランドのある浦安も、お台場も、有明も、酷い状態で、閉鎖されていました。まさに陸の孤島。ホテルの周辺までは、とんでもなく危ない雰囲気全開で、これはバックアッププラン1連れて帰る、だけでなく、バックアッププラン2帰りの飛行機が飛ばない場合の想定も考えなくてはと頭を回転させていたのですが、2人の止まっているビジネス街のホテルは、エレベーターが動かないだけで、無事でした。
夜中の0時にホテルに着いて、フロントで2人の顔を見た時には、本当にほっとしました。
怪我もしてないし、精神的に危ないところもなく、健全に驚きと不安がありました。
花ちゃんが1人じゃなくなったことにも安心しました。
ジョビーが、あんまり地震に気付いていなかったと聞いた時には、大笑いしました。
楽しみにしていた映画初日の舞台挨拶がなくなったことの方が落ち込みになっていることにも脱力しました。
こういう存在は大事です。
顔を見られて本当に良かったと思いました。
フロントで抱き合って、どんなに嬉しかったかは、伝えきれるものではありません。
花ちゃん、ジョビー、本当にほんとうに、無事でいてくれて、ありがとうね!
そうは言うものの、出来れば、このまま何も知らないで、怖い思いをしないでいてほしいとも思いますが、さすがに、「大丈夫~」が続くと不安も増すので、困ったものです。
「明日もう1度大きな地震があったらうちに来ること」「飛行機が飛ばなかったら、うちに来ること」と話したら、1人暮らしの友達のところが気楽なのでそっちにいくから「大丈夫~」という流れで、も一つうまく伝わらないものです。
こっちは明日店がどこも開かないことは分かってるし、コンビニでも商品がないことも分かってるし、備蓄のない1人暮らしの家に行くのは、災害時は無し、というのは、根底の文化の違いから認識が噛み合わないんですよね。うーん。旅行で、いつもの日本なら、楽しいのも気楽なのも、笑ってられるんだけど、こればっかりは、笑えない~~~。
そういえば、富士山の時も無茶苦茶なスケジュールで、「危険なのだけはダメ」と言い続けていた気がするんですが…そうだ、高い山も香港にはなかったんだ…。
本当に怖いものを知らない人たちは、大胆だな~~~。
翌日は道路制限が入ることも分かっていたので、もう迎えに来ることも出来ないなと思っていましたが、とにかく、うちもジョビーも何も食べていないままだったので、一緒にロイヤルホストに行って、ご飯を食べて、早く休んでもらうことを考えて、このまま連れて帰るより寝てもらう方がいいと判断しました。
4人ともちょっと落ち着いたところで、2人にホテルに戻ってもらったのは、夜中の1時でした。
別れてからも、長い道のりでした。
渋滞の中では、今日香港娘を連れて帰らなくて良かったと思いました。
5時間の渋滞で足はつるし、橋を4本渡る道のりで、橋の上に居るときに限って地震警報は鳴り響くし、帰りに寄ったコンビニでは、浸水と断水が一緒に怒った地域で、トイレは使えず、店内は雑誌以外何もない状態になっていました。お弁当もおにぎりもサンドウィッチも、断水で困った人が買っていった後だったのです。
大変な規模の地震が起こった、これからもっと酷いことが続く、そう感じたのは、帰り道でした。
幕張の駅前は、マンホールが飛んで、水浸し。
液状化で、建物はそのまま、地面だけ30cmほど下がるという、泥まみれの状態になっていました。
2週間前には、ジェシカをここに迎えに来たのに…。
家の前の煉瓦敷きの道路も、プリンのような感触で、煉瓦も浮いてしまっていました。
阪神大震災の時に、大阪から神戸まで歩いたことを思い出しました。あれは15年前です。
ソウルメイトとも言える友達を探して、瓦礫と火事の跡の中、18時間泣きながら歩いて、友達の家に着いたら、家もその周りも何もかも無くなっていて、絶望したことです。あれは一生忘れられません。
ありがたいことにその友人は、避難して神戸に居なかったのですが、見つかるまでの時間も、魂が半分もぎ取られたような気がしていました。
ちなみに今回の地震では、彼女に助けを求めているのが自分なので、やれやれ、という気がしないでもないのですが…。
香港娘2人を心配していたジェシカは、きっと、ああいう感じだったと思います。
香港からバックアップ・ベースでPCの前に張り付いてもらって、ずっとFacebookのチェックをしてもらっていましたし、2人の親に連絡してくれたり、気を張りながら、動き回ってくれてました。
本当にお疲れ様、ジェシカ。
でも、3人とも香港にいてくれてなくて、運が良かったとも思ってます。
ようやく、私たちが家に帰りついたのは、朝の6時でした。
その5時間後、車を貸してくれて香港娘を心配したご近所さんに起こされるまで大爆睡だったことは言うまでもありません…。
東北の方が酷いことになっていると知ったのも今日です。
宮城の気仙沼市と南三陸町は仕事で行ったことがあるだけに、本当にショックです。
日本で1番美味しいお魚が食べられるところで、優しくて忍耐強い、礼儀正しい人々の町です。
地震の初日も長い1日でしたが、まだまだ長い時間は続きます。
ひとまず、香港娘は無事に帰国してくれたので一安心です。
とりあえず、日本人の危機意識は高いので心配ないのですが、当面、海外からは誰も、日本を訪れないようにしてください。
余震は続きます。
会社で10時間仕事した後に「30kmくらい歩けるよ」という人以外、来ちゃダメです!
国内でも、これから、新たに生まれる問題に立ち向かわなくてはいけません。
被災した人に、簡単に「頑張ってね」なんて言えません。これまでだって、頑張って生きてきたんでしょうから。
色んな国の掲示板で、嫌悪感を抱く国の災害に、「罰だ」と片付ける人たちも居ます。そうかもしれない。
けど、私はそうは思わない。パキスタンも、スマトラも、チリも、中国・四川も、ハイチも、フィリピンも、カトラも、ハワイも、ニュージーランドも、自然災害で苦しんだ。
これは、災害。地球に生きて、良い人にも降りかかる、試練。命に理由なんて求めるものじゃない。
だからこそ、被災者には生き残ったことを称賛して、声をかけて、被災してない者同士で救いの希望とチャンスを呼び掛けて、長い時間を1人だと思い詰めないように、支えなくてはと思ってます。
日本人は強い民族です。きっと大丈夫。
阪神の時は6年で復興しました。
今回も10年以内に、命をつなぐ生活を築けると確信しています。
そうは言っても、当面は、たくさんの人に助けてくださいと言い続けなくてはいけません。
それは、被災してない人の役割です。
被災した人たちに代わって、頼み続ける気持ちが、きっと復興に繋がるんだと思うのです。




















